ぼんやりと空想の電車路線を思い描いてみたなんて事、皆さんはありませんか?
ぼくは時々そんなことを考えることがあって、ここからここに行く電車があればいいなあなんて地図上を指で辿ったりしながら空想したりします。
今回はそれと似ているようでちょっと違う形で駅名を考えてみました。
それはすでにある地下鉄路線の駅に、昔使われていた地名だったり過去にあった施設や地域にまつわることなどから、懐古な駅名をつけてみようというものです。
懐古な駅名を勝手に付けて空想することもぼくはよくあって、せっかくだし数駅分まとめて記事にしてみました。
ちなみに近年札幌市の地下鉄では、副駅名看板広告のスポンサーを募集していて、決定した副駅名は駅名板と並んで駅のホームなどに掲げられていますが、ぼくの空想駅名はそれとは全く関係のないものになりますし、まあアクセス数もほとんど無いこのBlogで書いたところで勘違いされることも無いとは思うものの、空想で勝手に付けたものであることをなるべくわかりやすいようにしておきます。
これは空想ですよ。
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青っぽい地下鉄の懐古駅名を考えていくよ。

札幌の地下鉄には3路線あって、今回はそのうちの青っぽい色の路線の半分くらいを僕の空想で懐古な駅名をつけていきます。
昔と今を行ったり来たり。
駅名とアルファベット表記、いまの駅名でいうとどこの駅かというのと、それぞれ簡単な解説も書き加えておきますので、もしご興味がありましたらご一緒に空想しながら最後までお付き合いください。
烈々布駅 (Retsureps)
現行の駅名では「栄町駅」にあたります。
烈々布(れつれっぷ)とはなんてふしぎな発音と漢字名でしょう。
語源はアイヌ語からではないかとされていて、おそらくこれだろうという幾つかの考察はありますが完全に解明されているわけではないようです。
昔このあたりは「烈々布(れつれっぷ)」と呼ばれていて、この地名は「烈々布神社」や「烈々布橋」などの名称でいまも残っています。さらに大正時代の古地図には「篠路烈々布」「丘珠烈々布」「札幌烈々布」の記載があり、3つの烈々布が隣り合っているのがわかります。
それがこの辺りなのです。
当時はどんな街並みだったでしょう、田畑が広がっていたのか、いまと同じ様に強い風が吹き付ける場所だっただろうか、泥炭の土壌は開拓が大変だっただろうか、なんて想像を膨らませずにはいられません。
ところで伏籠川を上流にたどると、旧琴似川に枝分かれしていて、その先の北50条東15丁目の辺りからはさらに南方に枝分かれし、そこから「烈々布排水」という名称になって、ここにも「烈々布」が残っています。ちょうど六花亭百合が原店のすぐ東側が起点です。
そしてその「烈々布排水」はすぐ先で暗渠となります。この排水路も昭和60年代までは露出した川で生活排水も流れていた様です。16丁目側へ行くには数mの川幅を渡す橋をわたっていたようですが、ちょうど地下鉄が出来たときに暗渠化されたようです。
暗渠となった今、この「烈々布排水」はどこからの水が流れてきているのでしょうか。道路の排水が流れているのか土壌から滲み出る水が流れるのか、はたまた昔札幌にいくつもあったメムと呼ばれる湧水地がまだどこかに細々と残っていてそこからきていたりしてねなんて。現実は意外と地味なものだったりしますので、たくさん想像をふくらませておきます。
ちなみにアルファベット表記には複数の烈々布が集まっていることと、Retsureppuよりpがひとつだった方が英語圏の人も読みやすいのではうんぬんかんぬんで(Retsureps)としました。
想像の解像度とは案外高いものです。
ラジオ送信所駅 (Radio tower)
現行の駅名では「新道東駅」にあたります。
この辺りにはかつて北海道放送のラジオ送信所がありました。
また新道の北側からひのまる公園の東側にかけては警察無線の送信所もあり、かつてこの辺りにはアンテナや塔が集まっていた風景の時代がありました。
はじめは「送信所駅」というのも考えましたが、このようにさまざまな送信所が集まっているので、駅の一番近くにある北海道放送の「ラジオ送信所」を空想駅名にしました。
ちなみにその北海道放送のラジオ送信所はその後ゴルフ練習場になり、現在はイオン元町ショッピングセンターとなっています。
ぼくがこの駅を使うのは「こうしんの湯」へ行く時が多いです。駅から外に出ると巨大なイオンの建物がそびえているので当時の風景を想像するのも容易ではありませんが、実はこのイオンの敷地内には「北海道民放第一声の地」という記念碑がありますので、それを探して過去を想像するのも良いかもしれません。
またこの駅と「こうしんの湯」の間には元町バッティングセンターがあって、ひと風呂浴びた後に夕涼みがてら歩いている時に聞こえてくる打音もなかなか風情があります。
ちなみに地図で駅とひのまる公園の間をたどると、北40条東12,13丁目の北40条こぶし公園のあたりで道路が斜めになっている区画がありますが、この様子も送信所があった当時の名残と思われます。
鹿の原駅 (Deer glassland)
現行の駅名では「元町駅」にあたります。
実はこの駅名を空想駅名として考える際にとても悩みました。郷土史好きな方から見れば「そこは元村駅だろう」と言われるかもしれませんが、それにちなんだ駅名は次の駅に付けようと思っていたので、ここは新たに別な名称を考える必要がありました。
しかしいろいろ思いを巡らせてもなかなか思いつきません、古地図を見ても札幌市の河川網図を眺めてもだめでした。
昔の地名や地域にちなんだ名称は、昔のバス停名だったり公園名や町内会名に残っていることが多いので、色々な資料を眺めているうちに見つけたのが北24条東10丁目にある「鹿の原公園」でした。
この「鹿の原公園」という名称がどのように付けられたのかまでは残念ながらわからず、ほかに「鹿の原」という名称が使われている施設や道路などを探しましたが、それらも見つけることはできませんでした。
それにしても「鹿の原」って名前とても良いですよね。3文字で真ん中に「の」が入っているのも個人的にはとても好きです。
きっと誰かがこの良い名前を何かしらの理由で公園名としてつけてくれたのでしょう。もしそれが昔の風景からの由来ではなかったとしても、これからもこの良い名前を大事にしたいなと思い空想駅名にさせてもらいました。
大友堀駅 (Otomo waterway)
現行の駅名では「環状通東駅」にあたります。
大友堀やそれを開削した大友亀太郎について、子供の頃から札幌にいる方なら小学校で習った記憶があるかもしれません。
もしかすると現在の創成川を掘った人という感じで覚えているかもしれませんが、大友堀はいまの創成川と同じ南3条から札幌駅の辺りまで北上したあとは方角を北東に変え、いまのファイターズ通りの近くを沿って、この駅の近くで伏古川と合流していました。
そしてその辺りには御手作場(おてさくば)という開拓の見本になるような農場があり、そして大友堀は用排水路としての役割を果たしました。
また大友堀は物資の輸送にも活用されていて、開拓や生活になくてはならないライフラインだったことが伺えます。
そう考えると、今の創成川にかかる創成橋の辺りが大友堀として有名ではありますが、御手作場がありまた大友亀太郎の役宅があったこの辺りを「大友堀駅」と名づけるのも良いのではと思いこの空想駅名にしました。
この駅で下車し、道道花畔札幌線線(別名ななめ通り/ファイターズ通り)を歩きながらあの頃の大友堀ルートを辿ってみるなんて休日も良いかもしれませんね。
光星駅 (Star and Larel wreath)
現行の駅名では「東区役所前」にあたります。
この辺りは北光地区という名称もあり、また光星という名称もあります。そのどちらにも「光」という漢字が使われていて、なんだかいいなと思うのです。
光星の方は学校名からの由来のようでこの辺りの施設などにもよく使われていて、地域の人たちに馴染んでいる名称ともいえます。
北光も光星もどちらも良い名前だと思いますが、学校名が地域に馴染んでいくというのもなんだか素敵だなと思い、光星を空想駅名にさせてもらいました。
星と月桂樹の冠が校章になっているので、空想駅名のアルファベットは”Star and Larel wreath”としています。
ふと思ったのですが、駅名に校章のようなマークがあってもいいですよね。
そしてまたこの辺りを地図で見てみると、道路が真っ直ぐでは無いところも多く、徒歩での散策では「あのカーブの先には何があるだろう」といったような楽しみ方も出来ること間違いなしです。
東皐園駅 (Tokoen)
現行の駅名では「北13条東」にあたります。
東皐園(とうこうえん)は明治の頃に札幌諏訪神社のすぐ南側にあった花園で、花菖蒲やボタン、芍薬や萩などが綺麗に咲いていて、たくさんの人が訪れていたようです。
当時の新聞広告にもよく出稿されていました。明治時代の新聞広告には大人一銭子供五厘(その後大人二銭子供一銭)と書かれていますが、現代でいうとどれくらいの料金なのかなんて考えてしまいます。
ちなみに中島公園の現在コンサートホールKitaraがある北側には「岡田花園」という花園もあり、こちらも人気だったようです。当時もいまも花を愛でる文化や習わしというのは変わらずにあったのだなと思うのです。
東皐園は昭和20年頃まであったようで、もし今も残っていたとすればこの空想駅名の「東皐園駅」で下車し、歩いて訪れる人も多かったかもしれませんね。
また、東皐園があったとされるブロックを航空写真で見ると、斜めの区割りがあるように見え、これもおそらく東皐園があったころからの名残ではないかと思うのですがどうなんだろう。
アルファベット表記は、東皐園(とうこうえん)という言葉の響きが心地よいため”Tokoen”としました。
札幌停車場 (Department stores in Sapporo station)
現行の駅名では「さっぽろ駅」にあたります。
さて今回の終点は札幌停車場です。
言わずもがなかもしれませんが現在のJR札幌駅の旧名称となります、そしてアルファベット表記については昭和26年より駅西部の地下で営業を開始していた「ステーションデパート」をどこかに散りばめたくて、”Department stores in Sapporo station”なんてながたらしい名前にしてしまいました。
昔からいくつものデパートや店舗があり、現在もステラプレイスなどたくさんの店舗が入る施設があるので、交通の拠点でありながらも同時にたくさんの人が憩い集う場所でもあるかなと思っています。
ちなみに旧札幌駅舎は「北海道開拓の村」で復元されたものを見ることが出来ますし管理棟になっているため中に入ることさえ出来ます、興味がありましたら訪れてみてください。
空想駅名として色々なものを考えましたが、結局は札幌停車場となりました。
空想駅名を考えている際、古地図を見ていると札幌駅から現在の東急百貨店のあたりには引き込み線があるのに気が付き、ここに運ばれていたものを頼りに空想駅名にしてもいいななんて思ったのですが、結局そこが何だったかも解明できず、「やっぱり停車場がいいよな」なんて経緯で決めました。
引き込み線についてはテキサス大学にアーカイブされている米軍作成による1944年頃の地図で見ると鮮明に描かれています。この地図は配色や線形といった見やすさの技術も高く、また施設名がアルファベット表記であるため解説的な機能も果たしていて、当時の地図としての学術的価値は高いと思います。
郷土史や地図が好きという方々にも一見の価値があると思います。下のリンクからSapporoを検索して開くと見ることが出来ます。
Japan City Plans 1:12,500 | University of Texas Libraries
あとがき
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ぼくは街の歴史というのがまるで地層みたいに記憶が重なって、レイヤー状になっている様に感じています。そこにあったものがいまは目に見えないけれど昔は確かにあったと。
今という蓋を開けて時代の足跡を紐解いていくのは、まるで小さな発掘作業のようでした。
昔のことを調べたり思い出したりしながら今の地下鉄路線に懐古な駅名をつけていくうちに、もし駅名がこんな名前だったら少しだけ暮らし方が変わったりするかななんて想像をしたりもしました。
こんな僕の勝手な空想を記事にしようと思ったのには、「今昔マップ」という現代と昔の地図を並べて眺められる地図の存在や、杉浦日向子著「江戸アルキ帖」の影響だったことも書き加えておきます。
とくに「江戸アルキ帖」は江戸の街に日帰り旅行をするという突拍子もない話なのに違和感なく楽しく読み進められお薦めの一冊です。
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